2006/10/30

No.9 エニウェトクの宿(DOE)












2月26日到着以来、DOEの残した施設に泊まっていた。
宿泊の個室部分とキッチン・ダイニングとに分かれ、ダイニングはアーネスト・ジョンソン氏との歓談の場にもなる。
キッチンには電気オーブン、四つ口(?)の電気コンロも備わっていた。
「食事付き」の意味は「自炊設備付き」だったようで、「何でも好きなもの」は食材を用意する。の意味だった!。
そして、そこでの料理担当 は自然淘汰された結果、アーティスト:中ハシ克シゲが担当する事となった。
・・・そう、料理もアートなのである!。

そしてキッチンの奥の部屋には洗濯機・乾燥機までも設備されたオール電化住宅である。
電源は隣のディーゼル動力の発電所だが、燃料供給も電力供給も不安定である。
到着の夜9時、突然停電した。 故障だったらしい!。


個室は全部で10室位だろうか、南北に伸びる廊下の左右、東西に配置されている。
私は東向き、外海の波音が聴こえる。 日本風に言うと6畳一間、シングルベッド一 つと作りつけの机と収納があるだけで、共用のバストイレを使う。 かたや若者たちの部屋は、8畳いや10畳+バストイレ。ベッドもセミダブルである。
・・・しかし公正なジャンケンの結果である。

でも、時にそんな私を気遣う来客があった。
・・・ちいさなヤモリ君である。

No.8 エア・マーシャルでエニウェトク環礁へ


目的地エニウェトクに近づくと雲が下がって来た。
滑走路へのアプローチは雨の中だったが、着陸すると雨は上がり青空が現れた。

迎えはトラック。まとめて荷物を人と共に荷台に乗せ一本道を北上してゆく。
2~3キロだろうか、途中幾つか荷物を降ろした後、島の北の外れに止まった。そこは、アメリカエネルギー省DOE(Department Of Energy)の古い施設で、コンテナのようなダイニングや宿泊施設の建物が並んでいた。


この旅は、その始まりから私に一つの不安を抱かせて来たが、ここでもそれが現実となった。



部屋は3つ。そのうち一つはバスルームが無かった。
さあ「平等にジャンケンを」と・・戦ったが、やはり結果は不安どおり・・・
こんなにジャンケンが弱かったとは・・・
日本式に言うと:6畳間、ベッド一つの部屋に・・・冷酷な結果となった。
こんなに暖かい南の島で、風邪の鼻水を流しながら、その晩はティッシュの箱を抱えて寝た。

ここ北部はエニウェトクの中枢で、ディーゼル発電所があり、その建物の中には現地の行政事務所のような部屋もあり、ピクニックの島での伝統的な島のコミュニティの歓談の写真が壁に飾ってあった。



この付近の島の幅は100mもなく、外海も内海も眺める事ができた。外海には珊瑚の浅い海が続き、その先でコバルト色の海が白く砕けている。

海は穏やかなブルーのグラデーションと白い砂浜、少し沖にはボートが浮かび、その発着のために桟橋とコンクリートのスロープがあった。

・・・ここが、ルニットへ向かうベースだ。

No.7 マーシャル:核実験場エニウェトク環礁について

1947年12月21日エニウェトク環礁の住民136人がウジェラン環礁へ強制移住させられた後、1948年4月15日アメリカは核実験を開始。
1957年、もう一つの実験場ビキニ環礁では、帰島した住民が残留放射能により被曝し再び島から離れるという事件が起きたが、ここエニウェトクでは環礁の土壌を汚染した放射能の浄化がなされ、1980年4月8日、450人の住民が帰島した。

島がネックレスのようにつながる環礁では島それぞれに役割があり、ここエニウェトクにも「住むための島」、「農業のための島」そして交流を楽しむための「ピクニック・会食の島」など環礁という環境から生まれた海と人と島に根差した伝統的な環礁の生活があった。しかし、実験区域となった環礁北部の島々は放射能汚染のため使用を不可能にしていた。


33年ぶりに住民は帰島を果たしたものの、エニウェトク環礁での生活システムは、以前に戻る事はなかった。
人々は、自分たちの生活を奪った放射能汚染を「ポイズン」と呼んでいる。
四半世紀経ったエニウェトク本島では現在もアメリカのローレンスリバモア研究所が白い繭のような観測施設を置き、環境放射能を観測する中で、また保障や支援と言う名目で自然環境に持ち込まれた消費文明社会からの物質の波を受けた生活の中で暮らしている。

統計によると人口53,000人の半数が首都マジュロに住み、四分の一がアメリカのミサイル防衛基地のクワジェリン環礁住んでいる。そして年齢構成では15歳以下が人口の半数を占めている(2003)。マーシャルは実に子供の姿が多く、ここエニウェトクでも同様だ。そして、何よりも彼らの笑顔は頭上の太陽のように明るく輝く。
そんな彼らは今の環境の中で育っている。

No.6 エア・マーシャルでエニウェトクへ(クワジェリン環礁)


マーシャルの首都マジュロからエニウェトク環礁へは、週一便のエア・マーシャル航空のDASH-8という34人乗り双発ターボプロップ機で飛ぶ。
飛行ルートは、マジュロ<->クワジェリン<->エニウェトクの往復コース。このコースは毎週木曜日でそれぞれの環礁区間が1時間余り、合計2時間余りの飛行時間だ。 ・・・週一便:必然的にエニウェトクからの帰りの便は、翌週のこの飛行機となる訳だ。


目的地エニウェトクへの移動手段だが、私的には途中に経由するクワジェリンが気になっていた。そこは、マーシャル諸島の中央に位置し、アメリカ軍が管轄する軍事基地である。そしてその基地に依存するマーシャルの人口の25%が住んでいる。
人口密集などで住民の健康問題なども言われる所だが、レーガン大統領以来のアメリカ戦略ミサイル基地がある。

最近の北のノドン、テポドン・ミサイル発射実験でも話題になった、弾道ミサイルを大気圏外で捉え、打ち落とそうという、SFの世界の現実:スペースウォーズの基地だ!。

約一時間の飛行の後クワジェリン空港へのアプローチに入る。
空から見る島は、他の環礁同様細長いが、滑走路周辺は緑が多く、明らかに整備されている。またパラボラアンテナの白いドームの数も多い!やはり米軍の基地だ!

大きくUターンのアプローチで着陸し駐機場所へ。 カーキ色の輸送機が翼を休めている。米軍の輸送機だ!。

実はマーシャルに来た時にもクワジェリンを経由したが、その時にはタイ軍の輸送機2機が並んでいたのだがすでに姿は無く、米軍の輸送機1機のみだった。 当時イラク戦争の只中!タイ軍が参戦していたのか定かでないが、緊張感がやって来る!。

乗客は全員ターミナルへ。手荷物は床に並べられ、MPや警官などの警備に監視され囲まれたロビーで過ごす。自由に動けるが、自由とは言い難い。30分ほどだろうか、居心地の悪いロビーを出て機体へと整然と戻る。

次は目的地、エニウェトク環礁へ1時間余りの飛行。しかし、私は飛行機の空調の風を直接受けて、風邪をひいてしまう。

2006/10/29

No.5 マーシャル諸島の首都マジュロにて-2


マーシャル諸島共和国は29の環礁と5つの島で構成されている。環礁の内と外を分ける島の幅は100mほどで長さ数キロの細長い島がネックレスのようにつながっている。

首都のマジュロでも同様で、視界をさえぎる建物のない場所では椰子の木越しに外海と内海が左右に見渡せるような細長い島のつながりなのだが、立派に舗装された道路があり、日本製や韓国製の自動車が整然と往来している。そして、その多くが1$定額白タクである。またスーパーにはきれいにパックされた食料品、日用品が並び、日本やアメリカと同じ消費の光景がある。もちろんそれらの物品は補償や支援などの名目で持ち込まれ、また輸入された先進、文明国・工業国の製品である。


元来環礁という自然とともに島に生活機能を分散し共生・循環する社会、文化で営まれていたマーシャル諸島に持ち込まれたそれらの製品は、魅力的であるが一方通行の消費物である。自然に返す、あるいは処理する手段を与えられないまま持ち込まれた消費文明の下に生み出された製品てある。

消費の後には消える事ない「ゴミ」として白い浜辺に積み上げられた赤い鉄くずであったり、外海:オーシャンサイドの岩の間で風に揺れるプラスチックであったり・・すでに消えることなく蓄積され目の前の自然景観の中に露出されるようになっている。



この国は過去の核実験の補償や、現在もアメリカのミサイル防衛の中核となる基地を提供する見返りとしての支援が国の財政上の大きな支えである。戦争の世紀:20世紀にはドイツ、日本、アメリカの統治下の歴史にあったこの国は、世界の政治と文明に翻弄されてきた。また文明がもたらした温暖化という地球規模の環境問題についても、地球気象の中心の赤道地域には影響が強く現れ、特に海抜の低い珊瑚礁上の国土は海面水位の上昇の影響を強く受けている。

その多くの原因が文明国が作り出したものである。この国は原因の多くを負うべき文明国よりも、強く、大きく、政治・経済だけでなく地球規模の環境問題からも明確な影響を受けている。

No.4 マーシャル諸島の首都マジュロにて-1

環礁の内海をラグーン(Lagoon)と呼ぶ。穏やかで美しい海である。 マジュロのラグーンはプライベートで世界を巡る途中立ち寄ったクルーザーや、商業船や漁船など世界中から船が立ち寄る南太平洋の港である。

ビキニディ間近い2月末、偶然にも日本の漁船がマジュロの港に入っていた。
100tのマグロ漁船、和歌山から来た「第一祐漁丸」である。
マーシャル近海でマグロ漁をしていたがエンジントラブルで修理のため寄港して、日本からもエンジニアが合流し、たまたまレストランで居合わせた日本人が彼らだった。
奇遇にも第五福竜丸も100tのマグロ漁船、そして建造されたのは和歌山だった。

翌日港に行くと停泊していた船体は木造の第五福竜丸とは違い近代的な白塗りの鋼鉄製で、我々を歓待してくれた。
レストランで居合わせた漁労長が船内を案内してくれ、久しぶりのマグロの刺身とご飯、そして味噌汁をご馳走してくれた後、ダイニングで第五福竜丸の話に弾んだ。
船長はじめ30代の彼も第五福竜丸事件を知っていて、我々の目的に興味を示してくれた。

第五福竜丸との違いは鋼鉄製や装備が近代的であるだけでなく、乗組員は23人の日本人ではなく、船長や漁労長、通信長など5名の日本人の他はフィリピン人の乗組員で、合わせて15名であることだ。

そして類似・共通点は戦後の復興期と同じく現在もマーシャル近海でマグロ漁をしていることだが、母船式の漁のため、故障・修理以外では港に入ることは無いという。

第五福竜丸は単独で焼津を出てマグロを追いマーシャルにやって来て被曝したのだが、祐漁丸と比べると、展示館で見る板張りの第五福竜丸が太平洋を渡り漁を続けたのは驚きである。

もちろん時代の違いはあるが・・・ 少ない漁獲と水爆実験に遭遇し被曝した彼らの日本までの帰路は、長くつらい航海だっただろう。

No.3 マーシャル、ビキニ自治体事務所にて


2004年、日本ではまだ冬の2月22日、年間平均気温27度の南の国へ美術家:中ハシ克シゲとともに、50周年を迎えるブラボー:ビキニディを捉えるOn the Day作品づくりのためにマーシャルを訪れた。


マーシャルには、その国名よりも知られている名がある。それは戦後の新しい世界を象徴するようにショッキングなデザインで登場した水着に付けられた「ビキニ」という名だ。
太陽、青い空、碧い海、白い砂、そして女性を連想させる「ビキニ」とは、この国の北西部にある環礁の名である。そしてそれは核の時代20世紀を象徴する衝撃的な原水爆実験が行われた地の名前である。


第二次大戦後、この国を統治するアメリカはマーシャルの北西部にある二つの環礁を核実験場として合計67回の大気圏内核実験を行った。
中でも1954 年3月1 日、ここビキニでヒロシマの1000倍規模の史上最大15メガトンの水爆実験:「ブラボー」が行われ、マーシャルの住民はじめ多くの漁船と漁獲、そして焼津のマグロ漁船第五福竜丸の乗組員23 名が被曝するという大きな被害を与えた(ビキニ事件)。

ビキニ環礁の東隣、ロンゲラップ環礁の住民たちは実験の避難指示がないまま第五福竜丸と同じくブラボー実験で被曝した。その後避難し安全宣言の後に帰島したが、残留放射能によって、また二重三重の被害を受け、そして、いまだ帰島できていない。これらによってアメリカの人体実験疑惑も浮かんでいる。
抗議活動の中心だったロンゲラップ村長ジョン・アンジャイン氏は、被曝により息子を亡くし、また自身も島に帰ることなく2004年7月20日、81歳で亡くなられた。

首都マジュロにあるビキニの自治体事務所を訪れると、人々が集まる1Fホールの壁に何枚もの核実験関連の絵が掛けられていた。
ベンチに座り親指を立てて迎えてくれる初老の彼らの後ろの合板に描かれた絵(ポスター)には「Everything is in GOD's hands. One Nuclear bomb can ruin your whole day.」と書かれていた。「すべては神の手に!一つの核爆弾はあなたのすべての日々を破壊する!」。

ブラボー実験から50年、マーシャルでは、今も放射能汚染を「ポイズン」と呼び、忌み嫌っている。見えない、そして隠され続けて来た核汚染被害へのやり切れない怒りと苦しみの言葉である。

いまだ帰島できないビキニ・ロンゲラップ環礁とは違い二つの実験場の一つ、エニウェトク環礁では、1977 年から浄化作業が行われ、1979年9月に作業終了後、翌1980 年に住民の帰島がなされていた。住民帰島がなされた実験場、そこが私たちの目的地だった。

No.2 二つの円と、その日の話:ルニットドーム


マーシャル諸島の北西エニウェトク環礁にあるルニット島の北部には、島の明るいグレーと珊瑚の海に濃いブルーの色違いサングラスのように二つの円が並んでいる!。
ここはアメリカの核実験場だった。この二つは核実験の爆心:GroundZEROに出来た穴:クレーターだ。

ブルーの円は1956年5月4日のLacrosse実験(40kt)で出来たクレーターで、珊瑚礁を吹き飛ばした爆心の穴は深く、周囲の浅い珊瑚礁の海と比べて深い青色をしている。
グレーの円は1958年5月5日のCactus実験(18kt)の結果出来た深さ9mのクレータだったが、核実験が終り島民が帰るために、核実験で汚染した島の土や核のゴミを集めて穴に捨て、厚さ45cmのコンクリートで覆って出来た直径110m、高さ7.5mのコンクリートドームだ。(GoogleEarthより)
完成は1979年9月6日、なぜこのようなドームが・・・?。


遡る1968年、アメリカは隣の核実験場:ビキニ環礁の安全宣言をし、住民の一部が島に戻った。しかし残留放射能のための被曝が明らかになり、1978年8月31日再び島を追われるという事件があった。そして現在もビキニには島民は戻れない。
もう一つの核実験場エニウェトク環礁はルニット島のCactusクレーターにこの核のゴミを集めたドームが造られ。これによって強制移住させられていた住民は戻ることが出来たが、この工事に関わった人の被曝も報告されている。そしてこの核のゴミ捨て場の島RUNITは、今も立ち入り禁止だ。(工事中のルニットドーム)


2004年3月1日、核の時代の象徴的なこのコンクリートドームの表面を、中ハシ克シゲは夜明けから日没までの12時間を7秒毎に5000枚の写真に撮った。 それは、ビキニ環礁で行われた史上最大の水爆実験:ブラボー(15Mt)が炸裂し、隣のロンゲラップ環礁の住民、そして日本のマグロ漁船第五福竜丸が被曝した日:1954年3月1日から50年目のその日:On the Dayだった。

5000枚のコンクリートドーム表面を写したOn the Day写真は2004年8月、保存されている第五福竜丸の横で繋がれ展示され、そして2006年9月京都でも多くのボランティアの手により再び繋がれ、この時代、その歴史が共通の場で捉えられた。

No.1 On the Day project 1st March



「中ハシ克シゲ展 」 ZEROs-連鎖する記憶-

NAKAHASHI Katsushige ZEROs -Interacting Memories- 




















2006年9月30日(土)~11月12日(日) 滋賀県立近代美術館
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同展に展示されたOnTheDayProjectの一つ、第五福竜丸が被曝したビキニ事件をテーマに行った 「On The Day 1st March/RUNIT dome」 の取材活動の記録を、同行した私nnogciの目と記憶を通して提供します

・取材:2004年2月21日--3月7日
・場所:マーシャル諸島共和国 /エニウェトク環礁/ルニット島

/第五福竜丸展示館:東京都江東区夢の島公園
・文/写真:nnogci